吉本興業と山口組、長く深い歴史 

先日、中田カウスが週刊新潮の記事になった事について少し書きましたが、吉本興行と山口組の付き合いは1934年、実に今から73年前に遡ります。因みに吉本興業創業者吉本せいの夫、吉本泰三は1924年に急性心筋梗塞で亡くなっているので、吉本せいは実質的に1934年当時は吉本興業で重要な役割を担っていたと想像できる。
keizu.jpg簡単な系図を作ってみました。サムネールをクリックすると拡大します。1934年当時山口組二代目山口登は山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目していた。

1934年9月3日、山口登は、庄村吉之助や笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいは、東京新橋演舞場で、大阪漫才公演を開催した。山口登は、この東京興行の応援に駆け付けた。翌10月14日、山口登は、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいとともに、東京 浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、虎造のマネージャーを引き続き、浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。

話は長くなりますが、山口組二代目山口登は吉本せいの頼まれ事が遠因で死去しています。その顛末を以下に書きます。
1940年(昭和15年)7月、広沢虎造は九州巡業を行った。巡業後、広沢虎造は、下関・籠寅組の親分・保良浅之助を訪ねた。保良浅之助は、下関の料亭「春帆楼」で広沢虎造を接待し、当時売り出し中だった女剣劇・不二洋子一座・大江美智子一座との映画競演を持ちかけた。広沢虎造は即決し、吉本興業に無断で、籠寅組の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌7月29日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。

同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、山口登はボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で千円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組は5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄は日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。

1942年(昭和17年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。

さてこの時有名な山口組三代目は田岡一雄は殺人事件を引き起こし服役していましたが、翌1943年7月に「皇紀2600年」の恩典で2年減刑され、高知刑務所から釈放された。その後田岡一雄は1946年に山口組三代目を襲名する。
今では考えられないことだが、田岡一雄は当時の大スター美空ひばりのひばりプロダクションの副社長を務めていた。また小林旭と美空ひばりの離婚会見には美空ひばりの親代わりとして記者会見に同席して世間を驚かせた。

これらの歴史的な事実から鑑みて、吉本興業と山口組が近年まで関係を維持していたとしても何ら不思議ではなく、吉本興業が山口組と無関係と主張する方が不自然ではないか。

この様に見てくると今回の林マサ未亡人の週刊朝日への告白記事も距離を置いて読む必要があるだろう。

尚、林裕章は2005年1月に中田カウスに見取られ逝去。最後の一言が「紳助を頼むぞ」であった。この辺から中田の増長が始まったとしても不思議ではない。

調べれば調べるほど、吉本興業は一部上場企業として相応しくない興行屋であることが分かる。
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[ 2007/03/31 05:50 ] 芸能 | TB(0) | CM(0)

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